小学校の時、体育館で落語をみた。名前は忘れちゃったけど、笑点に出てくるような着物を着て、扇子を持って話してくれてたような。。
でも、この記憶は私にとっては悪夢の記憶となる。
関西の出身だというと、何故か大阪の人だと思われがちだけど、私は神兵庫の出身。これも関西以外の人には分かりづらいようだが兵庫と、大阪と、京都と、奈良と、全然違う人が住んでる。
大学の時に訳あって大阪に通うようになってしまったのだが、1ヶ月で辞めたいと思った。
その時の理由が、笑いを求められるのが辛かったから。
当時大阪の大学で出来た友達は、私が何か喋るものなら「オチは?」と必ず聞いてきた。全ての話しにオチがあるのが当然やろ。と言わんばかりに、オチを求めてきた。それが苦しくなったのだ。
今となれば、この話し自体がネタのような話しなんだけど、これはネタでもなんでもなく、18歳の私に起こった悲劇だった。
芸人でもあるまいし、いつもネタを持ち歩いて準備してる訳ではないのだ。なのに、いつも面白さを求められ、それが耐えられなくなってしまった。
私は関西に住みながら、お笑いというものに、一線をひいてしまっていたのもあるのだ。
その一つの理由が、冒頭に書いた落語家の話しを聴いた体験にある。
体操座りで落語を一生懸命聞いていた中、何かの言葉が発せられた瞬間、その瞬間、ドッと笑いが起こったのは、広い体育館で私1人だった。
直後、笑ったことがとても恥ずかしくなってしまい、私のツボは他のみんなとはズレている事を確認してしまった。
そこからは、テレビを見ていても迂闊に笑えない。お笑いになると、周りの様子を伺うあまり、ガチガチに緊張してるもんで、、、面白い訳がない。
そんな風にして、私はお笑いとの間に、高い壁を立てるようになっていたのだ。
そんなだったから、大学での大阪人からの洗礼は厳しかったし、本当に辛かった。通学の定期は6ヶ月で買うとずいぶん安く買ってたものだが、それを1ヶ月ずつしか買えない。それくらい苦痛を感じていた。
結局はその大学を4年かけて卒業し、その後も大阪に居座る事になるのだが、ある時、人生を揺さぶるくらいの衝撃を受ける事になる。
そこで私は、
「笑いは、愛する事の第一歩だ。」
という悟りを得たのだった。
詳しい事はいつか書けたら良いなと思うけど、ある仕事ををしている人達と出会い、東京にもその支部があるというので、そこを見学に行った時のこと。
大阪では最初から笑いに全振りした姿を見るのは当たり前だったのに、東京にその要素はなかった。
これはもちろん、個人差とか、その場の状況とか、複合的な理由ありだとは考えている。でも、あまりに違うその姿に衝撃を受けた。
それと同時に、相手の事を大事にするとか、愛するとか言ったり思ったりしてても、それって相手次第でもあって、心閉ざしている相手に対して、1番のカウンターパンチは笑いやなと。
そして私とお笑いとを遮っていた、高い塀は崩れ落ちた。
そこからだ。
私の中で「笑い」という言葉の下に座布団が敷かれるようになったのは。
人生で何がしたいかと聞かれれば、「面白い事がしたいです。」と答える。
私は面白い事がしたい!
私は面白い事がしたい!
私は面白い事がしたい!
そして、出来ればそれを1人でではなく、誰かと一緒にやりたいのだ。
面白い事が起こると、人の心の中にある塀が崩れて、愛したり、愛されたり、許したり、受け入れたり、、そういう大事だけど難しい事が、少し難しくなくなる。
昔は、人に感動を与える人になりたいと思っていた。でも今は、人を笑かす人になりたい。その先は任せよう。そう思っている。
という訳で、私は準備に入ります。
今日も読んで頂き、ありがとうございます。
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