昨日祖母の事に触れたので、その続きを。
私はおばあちゃんっ子だ。両親からもとても愛されて育ったし、両親の事は大好きだけど、おばあちゃんはまた別枠のよう。
おばあちゃんはものすごく古い人間。実際生まれたのも昭和の始め頃。正月三が日はハサミや針使う事も禁止されたなぁ。
自分の生まれた家に、ものすごく誇りを持ってて、「◯◯の家はタバコ屋や。農家じゃなかったんやで。だから、土触ったことないねん。」っていうのが、自慢話みたいだった。
そういうのもあってか、極端な身内贔屓で、初孫の私をどれほど可愛がってくれたか。年取ってからもおばあちゃんの口癖だった。「あんたと過ごしたあの3年間は人生で一番幸せやった。」って。
郵便局に連れて行けば、顔見知りの局員さんが私に何かくれたとか、おばあちゃんが井戸端会議してたら、手を繋いで立ったまま寝てたとか、おばあちゃんには思い出がたくさんあるし、私にもあまりにもたくさんある。
商店街の荒物屋さんの店先にあったガラスのビー球がきれいで買ってもらったこと。お泊まりしたら朝ごはんは砂糖パンと砂糖水だったこと。いっしょに道を歩く時、いつも腕組んで車側を歩いてくれた事。一緒に寝た時はひんやり薄いせんべい布団で、おばあちゃんはその布団が好きだった事。魚の卵の煮物が美味しくて、それを「魚の子炊いたんあるで。」って嬉しそうに出してくれた事。春にはイカナゴの釘煮。夏はナスとそうめん炊いたのを作ってくれた事。
反抗期、色々あって心が荒れてて、弟と取っ組み合いの喧嘩になった事があった。私はハサミを弟にむけた。そしたら弟の前に立ちはだかって「この子に手出すんなら、おばあちゃんにし!」って血相変えて怒られた事も。あの時のおばあちゃんは本当に怖かったけど、そうやっても私と弟を守ってくれた。
そんなおばあちゃんが、私が21歳の頃倒れた。くも膜下出血だった。
偶然その時弟と電話してたから、すぐに救急車を呼んで、九死に一生を得た。
でも、おせっかいで手も口も出さずにはいられなかったおばあちゃんは、あちこち不自由になって、誰かを助けてばかりだったのが、誰かの助けなしでは生活出来なくなってしまった。
それでも話しが出来て、ハンバーグやお寿司が美味しく食べられてた頃はまだよかった。友達とカフェにお茶しに行けてた頃はよかった。マンションの周りを歩く練習が出来てた頃はよかった。
人の身体って、こんなに脆かったのか。というくらい、あちこち悪くなってしまって、動くことはもちろん、食べることも喋ることも自由がきかなくなってしまって、、おばあちゃんは何を楽しみに生きてるんだろう。って、私はおばあちゃんに何を恩返し出来るかな。って、なかなか答えは見つかってないんだけど。
前に会った時は、私のことも分かってるような分かってないような、そんな感じだった。
せめて私はおばあちゃんの事覚えていよう。そしていつか子供たちがこれ読んで、ひいばあちゃんの事、思い出してくれたらいいな。